ハワイの島々はおおよそ中央付近に大きな山があります。カウアイ島であればカヴァイキニ(とワイアレアレ)、オアフ島はコオラウ山系とワイアナエ山系、マウイ島はハレアカラーと西マウイの山々、ハワイ島ではマウナ・ケアとマウナ・ロア、それにコハラ山系やフアラーライなどがあります。ハワイの伝統社会ではこれらの山々から海岸へ伸びる尾根を境にして小さな土地(自治地区)が広がっていました。このような土地をアフプアアと呼びます。
伝統社会では土地の管理と身分制度がありました。図に示したように、ハワイ諸島全域を支配する人物はアリイ・アイ・アウプニと呼ばれました。諸島を支配したカメハメハ1世はこの身分に当たります。次に4大島(ハワイ、マウイ、オアフ、カウアイ)はモク・プニと呼ばれ、これらの島を支配する者はアリイ・ヌイと呼ばれました。これらの島々を大きなブロックで分けた一地区、あるいはラナイ島、モロカイ島の支配者はアリイ・アイ・モクと呼ばれました。その下にアフプアアがあるのですが、島によってはモク(カラナとも呼ばれます)とアフプアアの中間的な位置づけのオカナと呼ばれる土地もありました。
アフプアアの長はアリイ・アイ・アフプアアで、直接管理するのはコノヒキと呼ばれるアリイ・アイ・アフプアアの部下でした。アフプアアが多くの人を養うことのできる豊かな環境だった場合はさらに小分けして豊かな環境があるところはさらに細分化して、イリ・アイナと呼ばれる区画に小分けしました。まれにイリ・アイナを細分化したモオ(モオ・アイナ)も存在しました。
*モクとカラナ、カラナとオカナの位置づけは曖昧で、詳細な歴史はわかっていません。また、一般住民の下には敵の捕虜など、奴隷(カウア-)として暮らした人々が一部のアフプアアに存在しました。
カメハメハ3世が1848年にグレートマヘレと呼ばれる土地の分配を行うまでのハワイ諸島では、たとえばハワイ島には150以上、オアフ島には90近くのアフプアアがありました。ちなみにワイキキもアフプアアのひとつでしたが、現在のワイキキだけでなく、コオラウ山系の稜線を北側の境界として、西の端はタンタラスの丘からアラモアナにかけて、東はハワイカイとクリオウオウの境の峰までの広大な領地があてがわれていました。マノアやパロロの谷、カハラのあたりも含まれるかなり広い地域でした。
アフプアアは尾根に挟まれた渓谷で領地内を川が流れている環境が基本単位です。川があれば淡水を確保できるので、ハワイ島のような大きな島では内陸に孤立した形のアフプアアもありました。この場合は漁業を行うことができないので、隣接する別のアフプアアと物々交換を行って生計を立てました。隣り合ったアフプアアの境界にはブタの骨や木製のブタの像などが据えられました。ちなみにアフプアアとは「ブタを置いた盛り土」あるいは「ブタを捧げる祭壇」という意味です。
細長い三角形の土地には川以外にも不可欠なものがありました。タロイモを栽培する水田やカパ(不織布)を作るための河岸です。また海岸の手前には養魚池やカヌー置場などがありました。それ以外には食糧や薬、各種資材、染料などを確保するための農地があります。
重要なことは、すべての暮らしを細長い敷地のなかで完結させなければならないということです。上流の水を汚すと飲料水や農作物に悪影響を及ぼしますし、水田や染色などで川の水を汚したまま海に排水すると海水が汚染し、結果として魚が汚染したり、漁獲量が減ることになります。アフプアアは環境に配慮した暮らしを行わなければ立ちゆかないのです。
アフプアアの源流部はアリイ・アイ・アフプアア(あるいはコノヒキ)以外は入ることが許されませんでした。上流部は飲料水用に確保し、中流部にはタロイモ水田(ロイ)が作られました。下流域の、海に面した土地に集落がつくられ、集落のなかを通る川は海岸の手前に盛られた土の下を通って排水されます。水田の水は地下に吸い込まれてから海に流される仕組みです。このように細心の注意を払ったのは、排水を放置した結果、漁業に悪い影響を与えるという経験をしたためでしょう。環境がそのような考え方を求めたということです。環境循環型の生活は今日の私たちの暮らしを先取りしているとも言えるでしょう。実際、国連ではかつてアフプアアをテーマにした作業部会がありました。
アフプアアは理想的な暮らしを提供してくれるように見えますが、必ずしもそうではありません。ハワイ島などのアフプアアは他島と較べて広い領地を与えられましたが、暮らしに必要な淡水や豊かな土壌を十分に確保できるとは限りませんでした。18世紀末にハワイ島を訪れたキャプテン・クックは、航海日誌に次のように記しています。「(前略)取り引きするものを何も持たずにやって来るカヌーも数多くあった。ハワイ島のこの地区はひどく貧しいようだ…。」
ハワイ島のような新しい島ではカウ地区のようにほとんどが溶岩に覆われていて開墾はきわめて困難な地区がありました。ハワイ諸島は火山の噴火によって隆起しました。その主成分は玄武岩という火山岩ですが、内部に多くの気泡があるため、雨水は地化に浸透してしまいます。そのため溶岩地帯に設定されたアフプアアには広大な土地があてがわれたものの、人々は生きていくので精一杯というありさまだったのです。
王朝以前のハワイ諸島には貨幣経済がなく、土地を所有するという概念もありませんでした。保管するという技術が(ほぼ)なかったため、資産を築くという考え方がなかったのです。すべてはアリイ・ヌイ(大首長)のものでしたから、大首長が亡くなると土地の所有者とそれを借り受ける人たちとの関係は失効し、新たに即位した大首長がすべての土地を再度分配しました。(この仕組みをカライアイナと呼びます。)また、アフプアアでの収穫物すべてを自分たちが所有できるわけではなく、一部は上の位の人たちに渡されました。また、毎年秋に行われるマカヒキという収穫祭ではロノ神にその一部を捧げました。
筆者プロフィール
- カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。
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