3度に渡るジェームズ・クックの世界周航

前回は、クックが第2次航海に際して北方航路の開拓を計画したというところまでお伝えしました。 1772年から75年にかけて行われたこの航海では北方ではなく、大洋を南へと進み、幻の南方大陸を発見することになりました。残念ながら大陸は発見されませんでしたが、その熱も覚めやらぬうちに第3次航海が計画されました。今度は正反対ともいうべき北極海の探索です。当時、北極海ルートがあれば欧州とロシア、あるいは北米を経由して日本や中国を短い距離で結ぶことができ、軍事的に優位に立てると考えられていました。第2次航海後、クックは船を下りて病院長の職に就きますが、海への思いを捨てきれず、再び世界周航に出たのです。

第3次航海で使用した船は112名の船員が乗るレゾリューション号と、70名が乗るディスカバリー号の2艘でした。レゾリューション号の艦長はクックで、第1尉官はジョン・ゴア、第2尉官はジェームズ・キングという布陣です。マスターと呼ばれる第3尉官に配属された下士官のひとりにウィリアム・ブライがいました。彼は後のバウンティ号の反乱という歴史的事件の際の艦長ですが、当時の彼は知るよしもありません。ディスカバリー号の艦長はチャールズ・クラークです。

2艘は大西洋を南下して喜望峰を回り、インド洋から太平洋を経てアリューシャン列島へと北上を開始しました。このとき、航海の途中でサンドイッチ諸島(後のハワイ諸島)を発見します。1778年1月18日、彼はオアフ、カウアイ、ニイハウの順に島影を認めます。翌19日、彼らはカウアイ島に接近しました。すると島からハワイの人々がカヌーでやってきて船に上がり、運べるものはなんでも持ち去ろうとしました。クックは、他人のものと自分のものを区別しないというポリネシア人の慣習をトンガでも経験していたので、彼らを追い払うことはせず、その行為を諫めました。住人たちに引き続いてカウアイ島の首長(アリイ)が部下とともにディスカバリー号に乗船し、クラーク船長と話をしました。

翌1月20日、乗員の一部がカウアイ島のワイメアに上陸しようと船を出しました。すると再びカヌーが現れ、住人たちがボートにつかみかかってきたので、そのうちの1人を撃ち殺すという事件が起きました。幸いなことにこのときは大きなトラブルになりませんでした。2艘はここにしばらく停泊し、食糧や水などを補給しました。ワイメアでの積み込み作業を終了した9日後の1月29日、クックと部下のゴアはにニイハウ島に上陸しました。

レゾリューション号とディスカバリー号が停泊したケアラケクア湾

ニイハウ島を離れるとき、クックは発見した5つの島をアトウイ(カウアイ)、エネチーオウ(ニイハウ)、オレホウウ(レフア)とオタオーラ(カーウラ)、ウォウアホー(オアフ)と記載し、諸島の名として、航海へ資金提供をした人物のひとりであるサンドイッチ伯爵の名を付けました。従って当初のサンドイッチ諸島とは、これら5島の総称でした。

クックは、2月から11月までアラスカを探検し、その後に再びサンドイッチ諸島へ戻りました。11月26日にモウィー島(マウイ島)の南沖合に達すると、夜明けに数艘のカヌーがやって来たので、鉄片や釘を、彼らの持参したイカと交換しました。正午になると今度は大集団がやって来て食糧や豚などを受け取ります。その翌日、テリャブウ(ターリーブー)と名乗る人物が船を訪問しました。

クックは次第に無秩序になる乗員と住人の交流に歯止めをかけるため、個人的な交易の禁止、武器の携行禁止、性病蔓延の阻止、現地女性の乗船禁止、病気の疑いのある者の上陸禁止などを掲げました。しかし残念なことに、この命令はほとんど守られませんでした。クック自身も自分の命令に実行力があることを懐疑的に見ていたようです。その結果、欧米の伝染病に抵抗力のない住民たちは次々と乗員たちから感染し、その後、大きく人口を減らす原因となりました。

11月30日、彼はオアイイ島(ハワイ島)を発見し、翌日から住民と交易を開始します。しかし、秩序の乱れもあり、上陸をせずに島に沿って回りました。これが後に大きな意味を持つようになるのです。12月23日、レゾリューション号はディスカバリー号とはぐれ、翌年の1月6日まで単独行動をとります。この間、食糧や飲料水を少しずつ調達しますが、十分な量ではありませんでした。

1779年1月16日、2艘は再合流を果たすとカラカクーア(ケアラケクア)湾に投錨します。このとき彼らは数千艘ものカヌーに取り囲まれます。どのカヌーも豚や島の産物を満載していました。クックは住民たちから「エロノ(オロノ)」と呼ばれ、最高の待遇で迎えられます。このとき彼は再びテリャブウと面会します。そして彼が島を治める大首長のカラニオープウであることを知りました。クックの日記によれば、大首長は愛想のよい60ほどの年かさでした。長年にわたるカパの飲み過ぎで皮膚はかさぶたに覆われ、手足に少し震えがあったと報告されています。カラニオープウは少し前までマウイ島征服の戦いをしていましたが、うまくいかずに帰還したところでした。彼の妻は大王カヘキリの姉にあたるカーネカポーレイで、ふたりの息子がいました。後に諸島を統一するカメハメハは彼の甥にあたります。

クックが訪れたケアラケクアのヘイアウ

クックがケアラケクア湾に入港したとき、住人たちはマカヒキ祭の最中でいた。ハワイには作物の豊饒を約束する神であるロノがいます。ロノは妻の美しさに疑心を抱き、嫉妬のあまりに彼女を殺害してしまいますが、それを悔いたロノはマカヒキの祀りを執り行ったあと旅立ちます。そのとき彼は人々に対し、自分はいつか食糧を満載した船で戻ると約束したました。ロノの船は十字に組まれた木が船上に据えられ、白い布がぶらさがっていると考えられていました。クックの帆船はまさにそのような形でした。しかもマカヒキ祭の儀式と同じように、時計回りで島をほぼ1周してから入港したのです。住人たちは騒然としました。クックたちはロノ神そのものに違いないと考えたのです。

ここまでは歴史の教科書どおりですが、前回お話した事実を考え合わせると小さな疑問が生じます。クック一行はカウアイ島でカラニオープウと会っていますが、このとき大首長はクックを神としては扱っていません。マウイ遠征から戻り、恐らくはハワイ島を司るカフナ・ヌイ(大司祭)からの報告を受けたあとで、彼は初めてクックをロノと呼んだのです。カラニオープウにはなんらかの考えがあって、クックに対する呼び名を変えたと考えるべきかもしれません。

それはさておき、ケアラケクア湾に上陸したクックは、カフナ(司祭)のひとりに案内され、ヘイアウ(祭壇)を訪れます。ヘイアウでは最初にクーという神に祈りを捧げることを求められ、クックは地にひれ伏します。ロノも神であるはずなのに、なぜ別の神に対してひれ伏すのか? それには次のような事情があります。ハワイにはカーネ、カナロア、クー、ロノという神々がいます。四大神はポリネシア諸島に共通する神々ですが、ハワイ諸島ではクーの地位が高く、ロノはその下でした。

それはともかく、クックはロノ神として熱烈な歓待を受けました。しかし西欧の価値観から見るならかなり奇妙なものにみえたことでしょう。彼は半ば腐りかけた豚を差し出されたり、噛みくだいてから吐き出したカヴァの樹液を体に塗られたり、あるいは飲み物として差し出されたりしました。しかし、それらの儀式はハワイの住人にとっては最高の待遇でした。

翌月、土地の人々に祝福されながら一行はケアラケクア湾を出ましたが、直後の嵐で船が破損します。長期に渡る滞在で次第に乗員と住人たちとの関係がぎくしゃくしていたこともあり、クックは島に戻ることをためらいます。しかし、次の寄港予定地であるカウアイ島のワイメアまで船が持たないかもしれないことを考えると、引き返すより他に手段はありませんでした。

予想どおり、住人たちは掌を返したように冷たい態度で彼らを迎えました。初めの寄港のときから起きていた盗難がまたしても起こり、両者は次第に敵対していきました。そしてついに、船にとってはきわめて重要な大型ボートを盗まれるにいたってクックの堪忍袋の緒が切れました。彼はボートが戻ってくるまでカラニオープウを自船に拘留しようと彼の住みかに向かったのです。

湾まで来たカラニオープウは、そこで妻や家臣から船に乗るのを止められます。次第に不穏な状況となり、多くの住人が手に武器を持って集まりました。このとき、洋上の別のボートから船員のひとりがハワイ人を撃ち殺してしまいます。それがアリイ(首長)のひとりだったため、住人たちはクックたちに向かって一斉に襲いかかりました。クックは最初こそなんとか制止しようとしましたが、制しきれないと悟ると、近くにいた部下のボートに接岸するよう命じます。しかし、ボートは逆に沖合に出てしまいました。クックは泳げなかったので岸に立ち往生となりました。そしてハワイ人のひとりにナイフで刺し殺されてしまいます。皮肉にもそのナイフは彼が友好の記しとして彼らに贈ったものでした。

自ら寄贈したナイフで最期を遂げたクック

ナイフを振り下ろしたハワイ人は最初、クックがすぐに起き上がるものと思い、及び腰に様子をうかがっていました。クックが本当に神であると信じていたのです。しかし、いつまでも動かぬのを見て、彼や周囲の人間は一斉に自分たちの武器や石を振り下ろしました。クックの体はボロボロに引き裂かれました。

クックの最期については諸説あります。報告をした部下が自分の責任を回避するために、いくつかの脚色をしている可能性があるからです。報告はさまざまな形で行われましたが、後年、クックの死に責任を持たない下級の乗員が、上官とは異なった証言をしています。前述したのは、それらを考慮した上での推測です。

なぜ、神であるクックは殺されなければならなかったのでしょうか。直接のきっかけはロノ神に対する失望でしょうが、ハワイの人々にとっての神は、西欧の神とは少し異なった位置づけにありました。強大なマナ(霊的な力)を持つ首長やカフナは、神々と互角の力を持つという言い伝えがあったのです。実際、毎年のマカヒキ祭の最後のセレモニーは、島を一周した旗(ロノにみたてた旗)はカヌーで沖合に出るのですが、再び戻ってきて、今度は王と戦う儀式を行いました。皮肉にもクックはそれと同じパターンを取ってしまいました。カラニオープウは最後までクックに対して友好的に振る舞いましたが、住人たちはハワイの伝統的儀式に忠実だったのかもしれません。

住人たちは彼らの慣習にのっとってクックの死体から肉を削ぎ落とし、骨だけを保存しました。その後、指揮官となったチャールズ・クラークは遺体の返還を要求しますが、戻ってきたのは遺体の一部にすぎませんでした。ケアラケクア湾の突端近くにはいまもクックを記念する小さな碑があります。背後は急峻な崖と森に囲まれ、海か、あるいはあまり通る者のないトレイルを通じてしかそこへ行き着く手だてはありません。

レゾリューション号とディスカバリー号は、その後、オアフ島、カウアイ島、ニイハウ島を経てハワイ諸島を後にしました。その後ハワイ諸島はカメハメハ大王によって統一されます。しかし、クックの事件は、そのときに留まることなく、後のハワイの運命に大きく関わることになりました。

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筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。