ラナイシティーの中心街近く

ラナイ島はラナイハレ(1027m)を頂とする単一の火山で、海上に出現したのはおよそ130万年前です。かつてはマウイ島やモロカイ島とともにひとつの島を形成していましたが、海面の上昇とともに分離し、山塊の大半が浸食を受けて海に沈んで今日の地形を形づくっています。ラナイハレは「ラナイの家」という意味で、地元ではパラヴァイとも呼ばれます。北東から吹く貿易風の湿った風はマウイ島やモロカイ島に降り注いでしまうため、ラナイ島にはあまり雨が降りませんが、山頂周辺だけは雨が多く、緑の森が広がります。視界がよければ、山頂からはカウアイ島とニイハウ島を除くすべての島を望めます。

ラナイ島は地元ではナーナイとも呼ばれました。伝承によれば、マウイ島の首長だったカウルラーアウはマウイを追われラナイ島に住みつきました。彼はこの地の厄介者であった悪霊を退治し、名声を得たことで、島の開祖となりました。ちなみに、現在の島名であるラ(ー)ナイには「背中の突起」という意味がありますが、これは対岸から見たラナイ島の形状を表現したものです。

パイナップル畑跡

ラナイ島の人口は3000人ほど。主要産業がなく、閑散とした景色が広がります。しかしかつては飛ぶ鳥を落とすほどの隆盛を極めたこともありました。1882年にジョン・キドウェルという人物が南米からこの島にパイナップルを取り寄せ、農産物として定着させようとしました。その20年ほど後の1901年には、ドールがパイナップル会社が設立しました。

ドールが進出してから20年ほど経った1922年のこと、ハワイアン・パイナップル・カンパニーがラナイ島全土を購入し、パイナップル事業を寡占的に行いました。事業は隆盛をきわめ、1940年に入ると世界の生産量の8割を占めるまでになりました。経済的にはラナイ島がピークとなった時代です。しかし、サトウキビや他の農産物と同じく、パイナップルもまたアジア諸国との価格競争に敗れ、少しずつ衰退していきました。半世紀後の1994年には生産を終了し、跡地は今も荒野が広がります。

 

フロポエ岬

ラナイ島の経済を支えるのは、老舗の地元ホテルと2つの高級リゾートホテルです。来年には新ホテルが建設予定ですが、町は島の中央に位置するラナイシティーしかありません。一歩外へ出ると、滅多に人に会うこともなく、島はどこも閑散としています。また、ラナイシティーと各ホテルや空港と、南の海を結ぶ道は舗装されていますが、それ以外はほとんどが未舗装の状態です。

島の南西部に位置するマネレ・ベイは、もっともアクセスのよい場所のひとつです。ここにはフィッシャーマンズ・トレイルがあり、トレイルの終点となる岩場の上からはエメラルドグリーンの海と、遠くにマウイ島のハレアカラを遠望できます。トレイルの名前の由来は、かつてここに漁師たちの仕事場があったためです。フロポエと名づけられた周辺の土地は、いまから800年ほど前に漁師たちに使われていました。岩場から魚影を確認したり、漁具の補修をしたのです。漁師たちは魚を確認すると数日間留まって漁を行いました。写真に写っている石垣はいまから100年ほど前のもので、当時の漁師がカヌーを保管するために築いたカヌー小屋の跡です。

 

かつて集落のあったカウノル岬

島の最南端にあたるパラオア岬の名前はマッコウクジラのハワイ名に由来します。湾の北側はカウノルと呼ばれ、かつては集落がありました。この地の住居跡はおそらく、ハワイ諸島でもっとも多くの遺跡を残します。そのため、ここは国の歴史建造物(跡)に指定されています。遺跡の数は100を超え、住まいだけでなく、カヌー小屋や墓地の跡、ペトログリフ、ヘイアウ跡もあります。遺跡の保存状況がよく、多岐に渡るのは、15世紀から近年(19世紀末)まで人が住んでいたためです。ラナイ島の聖地として崇められていただけでなく、カメハメハ大王の住まいのひとつがこの地にあったことも、この地が大切に扱われた理由のひとつと言えます。また、マネレ・ベイと同じく豊かな漁場であったため、漁師にとっても重要な土地でした。

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筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。