溶岩に呑みこまれた農場

溶岩に呑みこまれた農場

パホア(パーホア / Pāhoa)は、ハワイ島の南東端近くにある小さな集落です。2014年に溶岩流が襲来し、町の一部が溶岩に埋もれたことを覚えている人も多いでしょう。かつて、1990から1991年にかけて、パホアから少し離れたカラパナの町も押し寄せる溶岩にほぼ埋め尽くされました。今回、パホアの町はわずかな被害で済みましたが、今後、カラパナが被った被害が起こる可能性は残されます。

この町は溶岩流の上に広がっています。過去125年から500年の間に流れた溶岩流の上にあり、60万年前後と言われるハワイ島の歴史から見るならごく最近出現した土地です。この溶岩はキラウエア火山の側方噴火としていまも活発に活動を続けるプウオーオー噴火口から流れ出す溶岩の一部です。今回と似たような規模の噴火はいまから一世紀半ほど前の1840年にも起きていて、パホアの町から2km近くまで溶岩流が迫りました。

町に迫り来る溶岩流(写真:USGS / 米国地質調査所)

町に迫り来る溶岩流(写真:USGS / 米国地質調査所)

パホアの人口は2010年現在で945人と、決して大きな町ではありません。日本人移民はこの町の発展に大きく関わっていて、いまも住民の半数はアジア系が占めます。パホアとは「尖った石」という意味のハワイ語で、この地域の平和と強さを象徴するとされます。溶岩流がこの土地を造ってからほどなく先住のハワイ人たちはこの地に住みはじめたという説があります。ハワイの口承伝説としてよく知られた『(火の女神)ペレと(その妹)ヒイアカの物語』にも登場します。

20世紀初頭(1902年)、オラアという砂糖工場がパホアの町に設立され、1907から1918年までは鉄道が敷設されて、ヒロの町までサトウキビ列車が走っていました。その後は車が流通の主体となり、1948年には鉄道自体も撤去されました。当時、パホアは砂糖産業とともに製材産業も活発で、産業を担ったのは日本人移民でした。

町の中心地

町の中心地

2014年6月、プウオーオーから襲来した溶岩流はパホアの町に迫り、同年9月には町の西方にあるカオヘ・ホームステッドを襲いはじめました。10月には日本人移民の墓地の一部を埋め、町のリサイクル施設に迫りました。溶岩流はこの施設の間際で止まりましたが、施設はその前に移転しています。(※現在は一部が再稼働しています。)

ハワイ郡とハワイ電力会社は町の送電線が切れるのを防ぐため、溶岩流に近い130号線を中心とする電信柱数十本の周囲に、倒壊防止策として石を積み上げました。溶岩流はその後、今日に至るまでパホアの町周辺に流れ込んでいませんが、この措置はあくまで臨時的なものです。そのため現在は、USGS(米国地質調査所)のハワイ観測所やハワイ大学ヒロ校の関係者により、さらに効果的な措置が検討されています。

カラフルな家々

カラフルな家々

今日、パホアの町は再び平静を取り戻しています。しかし、ハワイ諸島は北西から南東にかけて太平洋プレートが移動を続けています。現在も活発な火山活動を続けているキラウエア火山とその周辺から、パホアの町を経て近海に至るまでのラインは、地底のマグマが噴出する「通り道」となっています。そのため、またいつ溶岩が近くの火山から流れてきたり、足元から噴き出さないとも限りません。住人たちは抵抗することのできない自然の力に無力感を味わいましたが、一部の人たちは「ここは火の女神ペレの住む土地であり、彼女が溶岩を流すのであれば仕方のないことだ」と訴えています。そのように考える住民のなかには、カラパナの溶岩流で家を失ってパホアに移り住んだ人もいます。いずれにしても、ハワイ島の南東部を占めるプナ地区は、今後も溶岩の活動とともに生きていくことになるでしょう。

トップ画像は、町の西端にあったパホア・ラヴァ・ファームが溶岩流に呑みこまれた現場です。次回は、ハワイ島キラウエアのアースクエイク・トレイルを紹介します。

石で防御した被災地周辺の電信柱

石で防御した被災地周辺の電信柱

 

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筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。
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