キャプテン・ジェームズ・クック

キャプテン・ジェームズ・クック

1778年、西欧人として初めてハワイ諸島を見つけたのはイギリス人のジェームズ・クックです。ハワイ諸島は当時の西欧社会では知られていず、クックは航海の資金援助をしたサンドイッチ伯爵にちなみ、サンドイッチ諸島と名づけました。*1
イギリスの探検航海者として世界に名を轟かせたクックは、探検航海以外の情報はあまり知られていません。彼の生まれ故郷や肉親、記念館、記念碑、墓、あるいは航海日誌以外の資料などはあまり残されていないのです。*2 ここでは2回に分け、ハワイを含むポリネシアと、環太平洋一帯の社会に歴史に大きな影響を与えたクックの軌跡を見ていくことにします。

*1 ハワイ諸島とは別に、南米フォークランド諸島の1,000km沖合いに島を発見し、南サンドイッチ諸島と命名しています。
*2 ハワイ島ケアラケクア湾とカウアイ島ワイメアの銅像をはじめ、世界各地にクックの記念碑や像を見ることができますが、だれでも簡単に見ることのできる場所にあり、維持管理がきちんと行われている記念碑はごくわずかです。また、イギリスのクリーブランド州ミドルズブラには小規模ながら、キャプテンクック生誕地博物館があります。

1728年11月3日、ジェームズ・クックは社会の最下層に近い貧しい家庭で生まれました。スコットランド出身の父親の名も本人と同じくジェームズと言います。クックは聡明な子だったようで、農園主の援助で学校に通うことができました。当時のイギリスは世界最強の国でしたが、学校教育を受けることができた者はほんのひとにぎりです。安定した職にありついても、食べるのが精一杯という時代でした。運良く学校教育を受けることができても、授業で学ぶことはほとんどが宗教教育であって、数の計算や簡単な読み書きが申しわけ程度に行われるといった内容でした。そのような授業であっても、学校を出るとイギリス社会では大きな力となりました。産業革命時代のイギリスは、子どもであっても1日十数時間という重労働を課せられました。クックは学校を出ると食品店に丁稚として勤めましたが、給料はなく、寝床すら与えられず、夜はカウンターの下に毛布を敷いて寝ました。それが当時の一般的な暮らしだったのです。しかし勤勉に働いたクックは、ほどなく店主に認められ、小さく質素ながらも部屋を与えられるまでになりました。

彼の暮らしたヨークシャーの港町ステイクスは一年中強風の吹きすさぶ凍てついた土地でした。ここには多くの石炭船が入港していたのですが、クックはあるとき、安定した仕事を捨て、石炭船の船員になる決意をします。食品店に「就職」してからわずか8ヶ月後のことでした。1746年、クックが17歳のときにウィットビーという大きな港町へ移り、ここでジョン・ウォーカーという船主の所有する石炭船に、3年契約で見習い船乗りとして雇われます。彼の船はウィットビーの北にあるニューカッスル近くで石炭を積み、ロンドンまで運びました。彼はこの仕事を9年間続けました。

ヨークシャー州ステイクス

クックはウォーカーの信頼を得て石炭船1隻を任すと言われました。しかし彼はこの途方もない待遇を断り、1755年に一兵卒として英国海軍に入隊したのでした。当時、英国はフランスとの開戦が間近に迫っており、徴兵も行われました。聡明で仕事熱心なクックはたちまち艦長に認められ、出世階段を駆け上がります。クックは主にカナダ沿岸の測量と地図製作を任務としました。その腕の確かさは高く評価され、後の探検航海に必要な経験と技術を培ったのです。十数年に渡って英国とカナダを往復する生活を送ったクックは、1762年にエリザベスという女性と結婚しました。

18世紀は探検航海が盛んな時代でした。英国もまた他国との競争に負けまいと、ジョン・バイロンや、クックと同世代のサミュエル・ウォリスなどを派遣し、多くの探検航海を行いました。クックはそのような国際情勢のなかで金星観測の命令を受けました。金星が太陽面を通過するのを測量できれば、地球と太陽との距離を知ることができるということで、欧州社会では天体観測がもてはやされたのです。その最適地としてタヒチが候補となり、クックを船長とする探検航海が決まりました。1768年のことです。

彼はこのとき、エンデバー号という船を使いました。この船は彼が乗り慣れた石炭船を改造したものです。当時の基準で見ても小さく、ずんぐりとしていて、船足は遅く、船内の天井は低く薄暗く、見た目にひどく貧相に見えました。おまけに、喫水線が低いので時化るとひどく揺れました。しかし、クックにとってはメリットの方が大きかったのです。1つは頑丈であったこと。石炭を輸送する船なので通常よりも構造的に強く、しかも修理しやすくできていました。2つ目は大きさの割りに収容能力が大きいこと。3つ目は喫水線が浅いこと。未知の海域を進むので、できるだけ船底は浅くして、座礁を防ぐ構造になっていた方がよかったのです。4つ目は構造材に金属を使用していないことです。当時の帆船には銅が用いられましたが、エンデバー号は一部に鉄や真鍮の釘を使っただけでそれ以外はほとんど木製でした。これによって錆を防ぎ、大幅に耐久性が増したのです。クックがハワイを訪れたのは第3次航海でのことですが、そのときに用いられたレゾリューション号やディスカバリー号も石炭船、あるいはそれと同じ構造の船が用いられました。航海を通じ、クックは石炭船が多くの欠点を補ってあまりある長所があることを確信したのです。第1次航海に用いられたエンデバー号は、定員84名、総排水量386トン、全長30m、最大幅9mで、1768年から71年まで用いられました。

クック生誕地博物館

第1次航海では当初の予定地であるタヒチで金星観測を行うと、その後にニュージーランドやオーストラリア東岸を探検します。彼は英国海軍より、表立った目的とは別の秘密指令を受けていました。それは知られざる南方の大陸発見でした。当時、地球の南には理想郷とも言える巨大な大陸があるとされました。フランスやロシアなどの列強もこの大陸の探索に強い関心を抱いていました。タヒチでの観測を終えたクックは南進を開始しますが、周辺にまったく島影を発見できず、比較的短期間に南の大陸発見を諦めます。海軍からは、大陸が発見できなかった場合は、タスマンによって発見されていたニュージーランドの詳細な調査を命じられていました。彼はこの島を一周して測量を行い、その後オーストラリア東海岸の調査を経てイギリスに帰還します。

この航海で得たものは1000を超える植物標本に、500本の魚類のアルコール漬け標本、同行の画家パーキンソンが描いた1500点以上の絵など膨大な博物資料でした。しかし、それ以上に重要なことは、多くの現地の人々との交流です。なかには敵対的な土地もありましたが、大部分は互いに疑心暗鬼ながらもそれなりに友好的に交わったのです。クックのポリネシア諸島に関する深い理解は、この航海を通じて培われました。

しかし、クックたちが冒した罪も大きなものでした。まれにですが、船員による殺人や強姦、窃盗などがありました。それ以上に大きな問題は病原菌の散布でした。ユーラシア大陸の住人がすでに獲得していた麻疹やインフルエンザ、あるいは梅毒など、各種ウィルスに対する抗体を持たない太平洋一帯の住人は、クックやその他の探検航海者たちが持ちこんだウィルスの犠牲となったのです。ハワイ諸島では、クックが来航する直前に50万人はあったと思われる人口が、100年と経たぬうちに5万以下に激減したのもそれが主な理由です。

この航海には出資者のひとりであるジョゼフ・バンクスが同行しました。帰国後、彼は航海の成果に絶賛を浴びました。しかし、クックは軍人ということもあり、世間ではそれほど話題にのぼりませんでした。それよりも彼は第2次航海の準備に忙しかったのです。

石炭船を改造したエンデバー号

第2次航海の目的

クックの第2次航海は第1次航海の翌年に行われました。当時、その存在を信じられていた「テラ・アウストラリス・インクゴニタ」の探索を命じられたのです。このラテン語の意味は「未知の南方大陸」ですが、幻の大陸はついに見つからず、その名はすでに発見されていたオーストラリアに付されました。

1772年7月13日、クックが指揮をとるレゾリューション号と、世界周航を経験したトビアス・ファーノーが指揮をとるアドベンチャー号がプリマスの港を出ました。レゾリューション号には、クックのほか、後にカナダやハワイに足跡を残すバンクーバーなどが乗員として乗り込みました。

イギリス王立協会はクックにオーストラリアの調査を委託しました。第1次世界周航を終えたクックは、南に巨大な大陸はないと報告したのですが、さらなる探検を要求したのです。クックはトンガ諸島とニュージーランドを経て再び南へ向かいました。しかし、南極圏(南緯71度10分)を越えて探索したものの、南方大陸は見つかりませんでした。

その後、イースター島とマルケサス諸島を経てタヒチを再訪します。このときクックは、広い太平洋の多くの島で、彼らの話す言語が互いにとてもよく似ていることに気づきます。身体的特徴や宗教・文化についても共通性があることから、彼らは共通の祖先を持つに違いないと考えたのでした。タヒチでは地元のオマイという青年を乗船させ、本国へ連れ帰ることにしました。

第2次航海の業績は、ジョン・ハリスンによって開発された精密時計のテストに成功したことです。この機器を用いることで、正確な経度の測定が促進されることになりました。クックは帰国後に海軍からの名誉退職を薦められましたが、海から離れた生活を送ることなど考えられませんでした。彼は北アメリカの北方航路を探検することを計画しました。しかし実際の航海が反対方向となったのは、当時の彼には知る術もありませんでした。

筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。

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