太平洋の一大拠点であるホノルル空港はどのような時代を経て今日に至るのでしょう。今回はその歴史を辿ります。
今日の空港エリアは、その多くが埋め立て地です。古くから存在していた土地は王家の所有でした。周辺にはレレパウア、カイヒカプ、ワイアヘなど多くの池があり、それ以外は湿地か砂浜で、固い地盤はほとんどありませんでした。空港一帯の東端はアフア岬と呼ばれ、カイヒカプ池を挟んだ対岸には20世紀半ばまでロジャーズ・エアポートがありました。この空港の奥にはケエヒ・ラグーン水上飛行機港の桟橋が並んでいました。
それ以前には空港はまだなく、ハワイを訪れるには船が唯一の移動手段でした。サンド・アイランドはまだ小さな島でした。ちなみにサンド・アイランドが大規模に埋め立てられたのは、日本、ドイツ、イタリアなど、第二次大戦時の敵国捕虜を収容する施設を作るためでした。
ホノルル空港の誕生
今日のホノルル空港は、1927年3月にジョン・ロジャーズ空港として開港しました。第一次世界大戦で活躍した同名の海軍将校にちなむ名前です。その後、1939年から1943年にかけてケエヒ・ラグーンに水上飛行機用の桟橋が設けられました。
第二次大戦終了後間もない1947年5月2日、それまであったジョン・ロジャース空港とケエヒ・ラグーン水上飛行機港が合体し、ホノルル空港という名に変更されました。「空港の名称は所在地の都市名とする」という合衆国のルールに従ったものです。
空港設備の拡充
1947 年当時のホノルル空港にある空港ビルや付属施設は、いずれも戦争中に海軍によって建設された一時的なものでした。そのため戦後は旅客ターミナル・ビルを改装し、隣接するエリアには庭園を作りました。また国際線ターミナルのロビーには、土産物店や理髪店、花屋などが設置されました。空港と繋がる高速道路H1はホノルルの人口増と空港へのアクセスの利便性向上のため、1960年代に着工し、1986年に全線開通しました。
航空会社の参入
インター-アイランドエアウェイズ(後のハワイアン航空)は、1929年に初の島間商業運航行を開始しました。このときに運用したのはシコルスキーS-38という水陸両用機です。ハワイアン航空への社名変更は1941年で、同年DC-3を導入しました。また1947年、DC-3で運航を開始したトランスパシフィック航空(後のアロハ航空)は、定期航空運送業者として認可申請を行いました。
航空管制
当時の航空管制は無線やレーダーではなく、飛行する航空機と無線電話や無線電信での対応でした。その後、より安全を期するため、気象局の支部が設置され、諸島内と太平洋横断飛行の運航に関する天気予報を提供しました。これらに加え、税関や入国管理局、公衆衛生局などが設置されました。また農務省の施設も設置されて乗客の手荷物検査を担当し、検疫対象の果物や植物、種子、動物などの検査が行われるようになりました。
国際線・長距離線の拡大
1948年になるとフィリピン航空が太平洋を横断する最初の深夜便として就航しました。続いてノースウエスト航空がホノルル-シアトル路線の認可を受けました。この年の旅客輸送実績は早くも全米30位となる規模となりました。その後、ハワイアン航空、パンナム航空と続きました。
航空管制の移譲
1949年、ブリティッシュ太平洋航空はシドニーとホノルル間の飛行で18時間40分という記録を樹立し、世界的な話題を呼びました。これを機に、オーストラリア(シドニー)-カナダ(ブリティッシュ・コロンビア州ビクトリア)までの、DC-6によるホノルル経由サービスが開始されました。その後、前述したトランス・パシフィック航空 (アロハ航空) は、5機のDC-3で主要ハワイ諸島間での旅客と貨物の定期運航を開始しました。またこの年に航空管制の権限はヒッカム・フィールド(米軍)からホノルル空港に移管されました。ちなみに小規模な飛行場のことをフィールドと呼びます。このヒッカムの名前は今もヒッカム港とヒッカム・ビーチとして残されています。
パンアメリカン航空(パンナム)
1949年、パンアメリカン航空の最初の飛行機がホノルル空港に到着して一般公開されました。当時、世界最大規模の航空会社であったパンナムがハワイ路線に就航したことで大きな注目を浴び、多くの人がひと目飛行機を見ようと空港に押しかけ、間近で機体を見ようと何時間も並んだのです。
空港の拡大
1951年、朝鮮戦争の勃発によりホノルル空港における海外業務は倍増しました。これに呼応するかのように、サベナ航空 (ベルギー)、アメリカン・オーバーシーズ、イースタン航空、ウエスタン航空、カリフォルニア・セントラル航空、カリフォルニア・イースタン航空、フライング・タイガース、オーバーシーズ・ナショナル航空、シーボード・ウエスタン航空、ユナイテッド航空などが新たに、アメリカン航空やパンアメリカン航空などに加わりました。当時の空港ビルには関連国の軍人の姿が多く見られました。その結果、ホノルル空港は管制業務で合衆国3位の規模となりました。
旅客数の増加と、それに伴う地上交通量の急増のため、ターミナルの大幅な改修計画が作成されましたが、連邦政府は戦争中ということもあり、この計画を認可しませんでした。ちなみに、パンアメリカン航空の最新飛行機はホノルル-ロサンゼルス間を7 時間20分で飛行し、商業航空の新記録を樹立しました。
1951年、ヒッカム・フィールドの約半分(0.4平方キロメートル)がホノルル空港にリースされ、滑走路が増設されました。この滑走路は当時、世界最長の滑走路のひとつでした。しかしターミナルの増設計画は、米国海軍の管轄下にある土地に入り込んでいたため海軍はこの計画を拒みました。ターミナルの第2案は翌1954年に承認され、1955年までに運用開始となる予定でしたが、またしても軍が難色を示し、計画は再度延期されました。
再度の拡張計画
1955年、英国のジェット旅客機が親善飛行で世界一周を行ない、途中、ホノルル国際空港に着陸しました。これは合衆国初の商業ジェット機の運航です。その後1959年までに大半の旅客機がプロペラ機からジェット機へと交替しました。ますます旅客が増えたホノルル空港では、これに対応するため空港拡張と改良は必須となりました。そしてついに1956年、新計画が承認されました。
その後、パンアメリカン航空は東京-ホノルル間で史上初のノンストップ飛行を成功させました。(それまでは両空港の中間に位置するウエイク島で給油を行う必要がありました。)6330kmを約11時間半での飛行でした。この飛行機はさらにロサンゼルスまで飛行を続け、東京-ホノルル-ロサンゼルス間を19時間48分で飛びました。
新空港ビルは当時ハワイアン航空が占めていたエリア近くの駐機場の北側に建設することとなりました。ビル内にはレストラン、公共ロビーも設定されました。この他に合衆国本土からの出発到着エリア、海外からの出発到着エリア、諸島間エリアに3つのビルが建てられました。新ジョン・ロジャース・ターミナルは、1962年にオープンしました。新ターミナルビルの敷地面積は以前の5倍もの大きさとなりました。(この年の離発着数は合計26万回でした。)
日本の参入
パンナムは長年ホノルルを太平洋横断の拠点として利用し、ホノルル空港はその象徴でもありました。しかし合衆国の国内線での政策を誤ったことから次第に経営が傾き、今日では会社は存続しているものの、きわめて小さな規模になりました。その後、世界各国の航空会社がハワイ路線に参入し、黄金路線、ドル箱路線などと呼ばれました。今日、わが国からは日本航空と全日本空輸をはじめ、小規模な会社を含めて多数がこの路線に乗り入れています。
地元の航空会社(アロハ航空、ハワイアン航空、モクレレ航空)
ハワイ諸島を巡るときに必ずお世話になるのがアロハ航空とハワイアン航空です。ホノルルを拠点とする航空会社であるアロハ航空とハワイアン航空はハワイ観光の象徴ともいうべき存在でした。しかしアロハ航空は過当競争と原油価格の上昇のせいで赤字採算となり、1983年に旅客部門を終了しました。(貨物便は現存します。)ハワイアン航空はその後も経営を続けていますが、単独経営が厳しくなり、2023年12月にアラスカ航空によって買収され、その傘下に入りました。(社名は従来通りです。)アロハ航空は最大の競争相手であるハワイアン航空と何度も合併交渉を行いましたが、1970年、1988年、2001年の3回ともに失敗に終わりました。早い合併が実現していれば、違った形で存続できたかもしれません。
ホノルル空港は、国際線と主要4島が発着する第1、第2ターミナルの他に、第3ターミナルがあり、ここからはモクレレ航空がラナイ島、モロカイ島、マウイ島などに飛んでいます。各社のヘリコプター・フライトもここにあります。第3ターミナルは第1、第2とは少し離れた位置にありますが、Wiki Wiki Bus で移動できます。
ホノルル国際空港からダニエル・K・イノウエ国際空港へ
ホノルル国際空港は2017年4月27日からダニエル・K・イノウエ国際空港へと名前を変えました。ハワイ州出身の日系終身上院議員であったイノウエ氏の死去に伴い、その功績を称えて改称されました。同空港は、ハワイ州最大の空港として今日に至ります。空港は、ホノルルのダウンタウンから北西に4.8キロメートルの位置にあり、面積は1,710ヘクタール、オアフ島の陸地面積の約1%を占めます。