ロコモコ(ロコ・モコ / Loco Moko)はハワイのソウルフードと呼ばれます。今日でも専門店だけでなく、多くのレストランでメニューに加え、各店が独自のレシピで客を迎えます。今回はロコモコの歴史について振り返ってみます。

リチャード&ナンシー・イノウエ夫妻

リチャード&ナンシー・イノウエ夫妻

第二次世界大戦後の1949年。日系人のリチャードとナンシー・イノウエ夫妻は、ヒロのキノオレ通りとポナハワイ通りの角に、小さなレストランを開店しました。通りの向こうにリンカーン公園があったのため、店の名をリンカーン・グリルとしました。

ヒロ出身のリチャードは、戦前にコナ・ベーカリーやヒロのパシフィック・カフェ、さらにはホノルルのロイヤル・ハワイアン・ホテルなどで料理を作ってきた人物です。しかし開店当初のリンカーン・グリルのメニューは、ハンバーガー、ホットドッグ、パンケーキ、ビーフシチュー、サンドイッチ、スパゲッティーなど、どの店にも見られる一般的な料理が基本でした。

リンカーン公園には野球やフットボールをする若者たちがいつもたむろしていました。イノウエ夫妻は彼らのために、簡単で早く、たっぷりと量があり、しかもおいしくて安い料理を出したため、店はいつも若者たちで賑わいました。夫婦は早朝6時から夜の11時頃まで休む間もなく働きました。当時、ヒロの日系人2世の高校生やOBの青年たちは、アマチュアのフットボールチームである「リンカーン・レッカーズ」(リンカーンの略奪者)と「ワイケア・パイレーツ」(ワイケアの海賊)を立ち上げ、毎週末にリンカーン公園のグランドで練習をしていました。

リンカーン・レッカーズの一員だったジョージ・タカハシ氏

リンカーン・レッカーズの一員だったジョージ・タカハシ氏

試合後、リンカーン・レッカーズのメンバーはリンカーン・グリルを訪れ、ソーダやビールを飲み、ハンバーガーを食べて気勢をあげるというのがお約束でした。一方、ワイケア・パイレーツの若者たちは、リチャード・ミヤギの経営するカフェ100を訪れ、やはり飲み食いしながら、その日の練習を熱く語り合いました。ちなみに、カフェ100は、オーナーのリチャードが第二次大戦時にハワイ日系2世からなる100大隊に所属していたことが店の名の由来です。

1951年のある日のこと、ヒロ高校の常連たちがリンカーン・グリルに入ってきました。そしてそのうちの1人が、「ナンシー、おれは財布には35セントしかないけれど、腹ペコで死にそうなんだ。なんでもいいから35セントでできるものを食べさせてくれないか?」と頼みました。ナンシーはひと言、OK!と言うと、サイミンボール(ラーメンどんぶり)にたっぷりとライスを盛り、その上にハンバーグと卵の目玉焼きを載せ、さらにリチャードが大量に作り置きしておいたブラウン・グレイビー(肉汁のたれ)をかけて彼らに出しました。

それはこれまで見たこともない料理でしたが、彼らはそのうまさに感激してしまいました。少年は完食したあと、「これはうまい!」「すごい!」とナンシーに礼を言い、その日は帰りました。その数日後、同じ連中が店に来ると、「ナンシー、この間の料理に名前を付けたよ」と報告しました。「ロコモコと言うのだけど、どうだろう?」そう言ってナンシーの顔を見ました。後にナンシーは、だれがその名を言いはじめたか忘れてしまったけれど、「クレージー」という意味の、当時の若者のニックネームが由来だと思うと答えています。しかし、その後に名づけた当人を見つけ、同じ質問をすると、そうではないということでした。

ハワイスタイルカフェ(ヒロ)の本格ロコ・モコ

ハワイスタイルカフェ(ヒロ)の本格ロコモコ

 

『最初に英語でクレージーを意味する「ロコ」を思いついたのだけど、これでは名前が短すぎるので、ゴロを考え「ロコ・ソコ」「ロコ・ドコ」「ロコ・ココ」などの名前を考えたんだ。でも結局、ロコモコがいちばん呼びやすく、リズミカルだということから、みんなでこの名前にしたんだよ』と教えてくれました。

店主のリチャードは、『ロコモコという名は、ロコモーティブ(機関車)という単語を連想させ、活気のある若者をイメージするので、これに決めたと言いました。ハワイの若者たちは、ピジンイングリッシュでローカル(土地の人)を、単にロコとも言うので、地元ハワイにぴったりの名前とも言えました。

ロコモコが命名されて以来、リンカーン・グリルのメニューにはロコモコが加わり、高校生やOBたちには一番人気の食べ物となりました。ハンバーガーと玉子、ライスの組合せだけでは味が淡泊なことからリチャードの作ったオリジナルのグレイビーソースがたっぷりとかけられていて、このソースがロコモコの人気を高めたと言われます。

ヒロのような小さい町では、このようなニュースはすぐに広がります。リンカーン・レッカーズの連中がいつも「ロコモコ、ロコモコ」と、リンカーン・グリルの自慢をするので、ワイケア・パイレーツの若者たちは、カフェ100へ行ってロコモコを作ってくれと頼みました。そこで店主のリチャードは若者たちからロコモコのレシピを聞き、それをリンカーン・グリルと同じロコモコの名でメニューに加えました。1981年にリチャード・ミヤギが亡くなると妻のエブリンが店を継ぎ、今日のカフェ100に至ります。カフェ100には数多くのロコモコ・メニューがあることで知られます。

ケンズ・ハウス・オブ・パンケーキ(ヒロ)の定番ロコ・モコ

ケンズ・ハウス・オブ・パンケーキ(ヒロ)の定番ロコモコ

ロコモコがリンカーン・グリルでメニューに加わってからしばらくすると、ヒロの町では多くのレストランでロコモコが売られはじめ、しまいには学校のカフェテリアのメニューにまで加わりました。その後ロコモコは他の島でも人気が出はじめ、ホノルルでも多くのレストランでメニューに加わったのです。

1964年、イノウエ夫妻はリンカーン・グリルを売却し、ハワイ島の南コハラにあるプアコに移り住みました。その後、数年にわたって地元のマウナケア・ビーチ・ホテルで働きました。ホテルを退職した後もてプアコの自宅で暮らし、その一生を終えました。

イノウエ夫妻はロコモコの特許を申請してチェーン・ストアーを出すようなことをしなかったため、「カフェ100」は1984年に、ロコモコの特許を申請して、ロコモコの「誕生地」と宣伝しはじめました。それを知ったヒロ高校のOBやリンカーン・レッカーズのメンバーたちが立ち上がり、ロコモコはリンカーン・グリルのイノウエ夫妻が創作した料理だと、新聞の読者欄で抗議しました。カフェ100ではロコモコを商標登録しましたが、発祥の地の質問を受ける際に、「最初に売り出したのはリンカーン・グリルかメイズ・ファウンテン(後述)です」と説明するようにしているようです。

ロコ・モコの一翼を担うカフェ・ワンハンドレッド(ヒロ)

ロコモコの一翼を担うカフェ・ワンハンドレッド(ヒロ)

1987年にイノウエ夫妻がラスベガスやカリフォルニアを旅行した際にレストランでロコモコの名を見つけ、わが子の名を発見したようで嬉しかったと述べています。

補足情報

コージズ・ランチショップ

コージズ・ランチショップ

 

数年前にNHKがロコモコに関する新たな情報を伝えました。それによればリンカーン・グリルがロコモコをメニューに加えた年よりも以前にロコモコを提供していた日系人の店があると伝えました。現在、ヒロでコージズ・ランチ・ショップを経営しているオーナーがかつて勤めていたメイズ・ファウンテンという店でロコモコを出していたと言うというのです。そのときと同じレシピかどうかは定かではありませんが、ヒロのコージズ・ランチ・ショップでは現在もメニューに用意されています。

メイズ・ファウンテンがロコモコの名を使用していたのは、新聞に掲載されているので事実と考えて良いですが、このメニューは、今日のロコモコとは異なると思います。もし同じレシピか、それと似た内容であるなら、当時は多くの人がその事実を知っていたことでしょう。だれもその点に触れなかったのは、名前は同じでも、内容の異なる料理だった可能性が高そうです。

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筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。