世界に知られるリゾート都市であるホノルルはどのような歴史を持つのでしょう。多民族によって構成される世界の文化が集まる街であるとともに、火山噴火の跡がそこかしこに見られる自然景観、港湾、空港、特徴のある施設などを見ていきます。

集落の誕生

1838年のワイキキ

1838年のワイキキ

ハワイ諸島への最初の入植者は、500年から750年の間にマルケサス諸島からやってきたとされます。その後、1000年頃にタヒチから大量の入植者が出現してマルケサスの人々を配下に置き、ヘイアウ(神殿)の建設や農作業を行わせたという説*があります。マルケサスの人々が小集団(マイノリティ)であったことを「小さな集団」と捉え、これがメネフネ伝説となったという説*もあります。

* 異なる説もあります。

移民集団の移動方法は20メートル前後の航海用カヌーです。船底に舵はなく、船は海のなかに隠れた岩礁をそれほど気にすることなく陸に近づくことができました。座礁しにくい船体構造ですが、ハワイ諸島の海岸は崖であることが多く、船が停泊できる場所は限られていました。

航海用カヌー(Nāmāhoe)

航海用カヌー(Nāmāhoe)

ちなみにマルケサス諸島から移住した人々もまた、それより先に住み着いていたと思われる少数民族を駆逐した可能性があります。その痕跡は北西ハワイ諸島(パパハーナウモクアーケア)のいくつかの島に残されています。しかしメネフネ伝説は数多くありますが、いずれも確かな証拠があるわけではありません。

 

王族と支配

伝統社会時代のハワイは、アリイ(支配者 / 首長)によって支配されていました。いずれも外の島からの移住者であるため、一族の権威を定着させるために一族の系譜を伝えることを重視しました。数ある説のなかで良く知られているのは、1100年頃にタヒチから到来した戦士集団のアリイ長がハワイの島々を植民地化したというものです。

彼らは「カプ / ルール」と呼ばれる方法によって社会を統治しました。カプはヘイアウという神殿を中心に制度化され、ブタなどの生贄を捧げて神々に祈りを捧げました。やがて各地域のアリイたちは、他の島のアリイの襲来を防ぐために団結し、「モイ」(島全体の王)という支配者を立てました。

開拓当時のハワイ諸島はだれもが移住者であって、土地の権威を象徴するような人物は存在しませんでした。そのため、支配階級は権威付けのために、神々から自分たちにいたる系譜を用意し、自分たちの神格化に利用しました。

オアフ島最初のモイは、クムホヌア**です。口承伝承(モオレロ)によれば、彼はマヴェケというタヒチ出身の有名な魔法使いの孫とされました。クムホヌアは1200年代半ばにオアフ島を統治しました。その後、彼の弟であるモイヘカがカウアイ島のモイとなりました。彼らの家系は、オアフ島最後の王カハハナが1783年にマウイ島の王であるカヘキリに敗れるまで続きました。

** クムホヌアはハワイ創世神話のひとつで最初の人として神々が創ったという説もあります。

オアフ島にはクックが訪れる直前まで独自の歴史が流れていましたが、カヘキリとカラニオープウによる制圧で大きく社会環境が変わりました。オアフ島を支配したカヘキリは1794年にオアフ島で亡くなり、息子のカラニクプレが王となりました。その翌年、マウイ島に住むカメハメハは武器と船を増強してオアフ島に侵攻し、カラニクプレの軍隊を殲滅させました。その後、カウアイ島の王であったカウムアリイが戦わずして降伏し、カメハメハによるハワイ王国は諸島の制覇を果たしました。

バターワース号(1791)

バターワース号(1791)

 

フェアヘブン

カメハメハ1世が諸国の制圧に乗り出した時代のホノルルは、海岸線にわずかな建物が見られる程度の小さな集落でした。1793年、英国船のウィリアム・ブラウン船長はバターワース号をホノルル港に入港させました。当時はまだ港として整備されていたわけではなく、座礁しないよう細心の注意を払って入港させました。

船員たちは無事に船を湾のなかに導いた船長に敬意を表し、この湾はブラウン港(Brown's Harbor)と呼びましたが、船長は自分の名を冠することに興味がなく、フェアヘブン(Fair Heaven / 美しい港)と名づけ直しました。

「ホノ・ルル / Hono lulu」とは「護られた港 / 穏やかな港」という意味ですが、その後フェアヘブン***がどのような経緯でホノルルに変わったのかということは良くわかっていません。

***ヘブンには「安全な場所」とか「待避所」という意味があります。この他にクーローリア、ケ・アヴァ・ア・コウなどの地名もありました。ちなみに日系人はホノルルに「花瑠瑠」という漢字をあてていました。「ハナルル」の方が実際の発音に近いかもしれません。

19世紀の捕鯨船

19世紀の捕鯨船

カメハメハはマウイ島のラハイナに王国の首都を置きました。彼は諸外国との貿易資源としてククイの実(燃料)、グアノ(鳥の糞 / 燃料・肥料)、真珠貝(装飾品)などを外貨の収入源として輸出****しましたが、その後ビャクダン(イリアヒ / 香料)貿易の管理を強化するため、住まいをラハイナからホノルルに移しました。カメハメハ1世は1819年に亡くなりましたが、ホノルルは太平洋地域の重要な経済拠点としての道を歩みはじめました。

**** この他に花卉産業(観賞用としての花)も重要な産業として定着しています。

白檀の出荷

白檀の出荷

ビャクダンの集荷(穴に満杯が貨物船一艘分)

ビャクダンの集荷(穴に満杯が貨物船一艘分)

 

ホノルル遷都と宮殿の建立

王国の首都はその後もマウイ島のラハイナにありましたが、ホノルル港は外国商船や捕鯨船でもっとも賑わいました。そのため、カメハメハ3世は1850年にホノルルを王国の首都に変更しました。そして増え続ける船に対応するため、桟橋を建設するなどの投資が行われました。

1882年に完成したイオラニ宮殿は現在に至るまでアメリカ合衆国唯一の王宮です。礎石のなかには1879年当時の写真、文書、通貨、ハワイ国勢調査の資料が入った銅製のタイムカプセルが埋め込まれています。

イオラニ宮殿

イオラニ宮殿

イオラニ宮殿が完成したのはカラーカウアの時代ですが、構想はカメハメハ4世の時代でした。当時はまだ王家の贅沢三昧が可能で、巨額の予算が計上されました。アメリカ本土でもまだ珍しかった電気もエジソンの発明から数年後だったにもかかわらず、取り入れられています。この宮殿はハワイ王国のピークを教えるものとも言えそうです。

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筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。