クレーターの出現

アラ・モアナ・センターとアロハ・タワーを底辺とした正三角形を描くと、その頂点辺りにあるのがパンチボウルと呼ばれる大きな火山です。初めてホノルルを訪れたときにダイヤモンドヘッドと間違えた経験のある人もいることでしょう。

この火山はおよそ10万年~7万5千年ほど前にオアフ島で続いた火山活動によって出現したとされます。かつてあった山頂はダイヤモンドヘッドと同じように、海水に触れて水蒸気爆発を起こし、吹き飛ばされました。その跡に今日のクレーターが出現しました。当時のコオラウ山脈の麓まで入り込んだ古いサンゴ礁の割れ目から噴出した溶岩によるものです。このクレーターの形がパンチボウル(半球形のガラス製ボウル)に似ていることからこの愛称がつきました。

上空から見たパンチボウルの全景

上空から見たパンチボウルの全景

 

王国の歴史とクレーター

パンチボウルはかつてハワイ語でプー・オ・ワイナ(Pūowaina / 供託の丘)と呼ばれました。このハワイ語はさらに以前にはプウ・オ・ワイホ・アナ(Puu o waiho ana / 生け贄の穴)と呼ばれました。カプ(伝統文化における規則)を破ったものは死罪となり、この地で死刑執行が行われたのです。

墓地正面のモニュメント

墓地正面のモニュメント

その後、カメハメハ大王が諸島を統一する際、パンチボウルはオアフ島における戦場となりました。彼は火口の縁に2門の砲台を設置しました。しかし大王の死後、1880年代の初頭に一帯は開放されました。やがて1930年代になると、クレーターはハワイ州兵の射撃場として使用され、パンチボウル砲台あるいはケクアナオア砦などと呼ばれました。

戦没者の碑

戦没者の碑

戦後の役割

第二次世界大戦中の1943年、当時のハワイ州知事はパンチボウルを国立記念墓地(太平洋国立戦没者墓地 )として活用することを提案し、1948年2月に議会が承認して建設が始まりました。最初の埋葬は1949年1月4日に行われています。以後この墓地には、第一次世界大戦と第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで命を落とした5万3千人ほどの軍人が埋葬されているほか、第二次世界大戦以降の戦いで行方不明となったおよそ2万9千人の兵士も埋葬されており、総計8万2千人が眠ります。1976 年には国家歴史登録財に指定されました。

墓地の配置図

墓地の配置図

 

当初、墓地の墓には白い木製の十字架とダビデの星が刻まれていました。しかし、1951年に花崗岩のシンプルな墓石に置き換えられました。パンチボウルには、さまざまな宗教的背景を持つ戦死者がいるため、彼らに敬意を表すことができるようにと、宗教ごとのセクション(*図にアルファベットで表示されたもの)を設け、特定の宗教が目立たぬよう思想的多様性を反映させています。セクションにはキリスト教やユダヤ教、仏教などのほか、無宗教の人たちのセクションも設けられています。ちなみにハワイ州を代表する人物のひとりであるダニエル・イノウエ氏やスペースシャトルの事故で亡くなったエリソン・オニヅカ氏もここに眠ります。

日系人442連隊の碑

日系人442連隊の碑

 

今日のパンチボウル

墓地を取り囲むようにモンキーポッドなどの巨樹が植えられています。その他にプルメリアの木も植樹されていますが、これは観光的な由来ではなく歴史に基づきます。プルメリアの英名はテンプル・フラワーと言い、欧州では墓地に植えられる木であったためです。

正面の景観

正面の景観

 

毎年500万人を超える訪問者が墓地を訪れます。メモリアル デーにはすべての墓にレイが捧げられます。パンチボウルは墓地ではありますが、オアフ島で最も見晴らしの良い場所のひとつでもあります。頂上からはホノルル市と太平洋を広く見渡すことができます。

筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。
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