伝統社会時代

ラハイナはかつてレレと呼ばれました。ハワイ語で「飛ぶ、ジャンプする」という意味ですが、海から突き出した地形が「飛んできた石」を思わせたことに由来するとされます。後にラハイナとなりましたが、正しい発音はラーハイナー(Lāhainā)であり「(灼熱の)無慈悲な太陽」を意味します。この他に、ラハ・アイナ(Laha ‘aina)が語源であり、「広がる地」あるいは「予言の地」に由来するという説もあります。

ラハイナ中心街

ラハイナ中心街

初期の統治者

マウイ島西部の最初の大王(モーイーまたはアリイ・ヌイ)は、パウマクア・ア・フアヌイカラライライの息子であるハホとされます。ラハイナに名づけられたレレという名は、後のカカアラネオの統治時代に決定されました。カカアラネオは弟のカカエとともにケカアと呼ばれる丘に住みました。カカアラネオはマウイの土地にウル(パンノキ)を植え、その息子のカウルラアウはナーナイ島(ラナイ島)から亡霊を追い出しました。事実は、亡霊伝説を唱えた土地の権力者であるカフナ(祭司)を追い出したのでしょう。

カカアラネオの弟カカエには息子がいました。カヘキリ(1世)です。彼は父と伯父の後を継いでマウイ島の統治者となりました。カヘキリ1世の後を継いだのはその息子のカヴァオカオヘレで、彼の後を継いだのはそ息子のピイラニです。ピイラニはマウイ島西部のハナ近くにあるピイラニハレ・ヘイアウが知られます。彼は支配圏をマウイ島全域に広げ、マウイ島全域を支配した最初の統治者となりました。ピイラニはまた、隣接するラナイ島、カホオラヴェ島、モロカイ島の一部も支配しました。

1832年に建造された砦の跡

1832年に建造された砦の跡

キリスト教の普及

1802年から1803年にかけて、カメハメハ大王はラハイナにペレレウ・カヌー(戦闘用のショートタイプカヌー)を常駐させました。彼はこの間にカウアイ島最後の王であるカウムアリイに手紙を書き、統治権を移譲するように求めました。カメハメハによる1804年の侵攻は失敗したものの、1810年にカウムアリイは降伏し、このときハワイ諸島は初めて全島が統一されました。息子のカメハメハ2世は1819年の暮れからホノルルに戻る1820年2月までラハイナに滞在しました。

ラハイナルナ高校

ラハイナルナ高校

アメリカのプロテスタント宣教師たちは、1820年にハワイ諸島に到着し各島に布教拠点を設立しました。しかしマウイ島に最初の伝道所が設置されたのはその3年後の1823年のことです。宣教師たちはカメハメハ1世の妻のひとりであるケオプオラニ妃とその娘ナーヒエナエナ王女を伴い、オアフ島からマウイ島のラハイナに向かいました。やがてケオプオラニは衰弱します。そして死の床でキリスト教に改宗しました。宣教師たちは王妃を記念して藁葺き屋根の、仮設教会を建てました。

旧裁判所および旧税関

旧裁判所および旧税関

1831年になると、宣教師たちはラハイナルナ神学校(現在のラハイナルナ高校)を設立し、ハワイの子供たちに宗教や工芸、農業などの技術を教えました。ちなみにいち早くハワイの伝統文化を伝えた歴史家のデイビッド・マロもそのときの生徒の一人です。ラハイナルナは1834年に最初のハワイ語新聞を発行するとともに、ハワイ語の聖書を編纂しました。

捕鯨と町の発展

捕鯨船員が宣教師宅の砲撃に使った大砲

捕鯨船員が宣教師宅の砲撃に使った大砲

19世紀になるとラハイナはアメリカの捕鯨基地として重要な役割を担います。島に立ち寄る船員たちに水や食糧などを提供しました。ちなみに、船員たちはひとときの上陸で羽目を外したがり、一方、宣教師たちは彼らを疎ましく思っていました。あるとき船員たちが暴動を起こし、(このときはイギリスの)捕鯨船ジョン・パーマー号がラハイナの宣教師住宅を砲撃しました。この事件により1831年、ラハイナに砦が建設されました。

モクウラ島

モクウラ島

カメハメハ3世は1837年から1845年まで、ラハイナ中心部のモクヒニア湖に浮かぶモクウラ島に伝統的な王宮を作って住んでいました。1838年にハレ・ピウラと名付けられた2階建ての西洋式宮殿を建設しはじめましたが、この建物が完成することはありませんでした。モクウラ滞在中の1840年、3世はラハイナのルアエフで最初のハワイ憲法に署名します。翌41年には同所で最初の議会も開かれました。

しかしオアフ島の商業的重要性が高まったため、カメハメハ3世は1845年に首都をホノルルに移しました。その後、ハレ・ピウラは1858年のハリケーンで大きな被害を受けるまで裁判所として使われました。ちなみに、ここにあるバニヤンの木は全米最大の樹木として知られます。

バニヤンの木、1本の木が気根を垂らしながら広がったもの

バニヤンの木、1本の木が気根を垂らしながら広がったもの

伝統と先端、自然災害

21世紀に入ると、ラハイナの町はハワイ諸島のなかでは珍しくアメリカ本土のような景観が取り入れられました。自動車専用道路や、総ガラス貼りの書店、スケートボード競技場など、現代的な都会に生まれ変わりつつありました。

ラハイナは百年ほど前に大火災が発生して30棟以上が焼失しました。このときの教訓をきっかけに、マウイ島全域を管轄するマウイ消防局が設立されたほか、火災安全基準が設けられました。

山火事で焼失したラハイナの町

山火事で焼失したラハイナの町

 

そして今年8月8日から9日にかけて、ハリケーンと乾燥した空気によって巨大火災が発生し、町の大部分が焼失してしまいました。百名を超える死亡者と百名を超える行方不明者(9月12日現在)が確認されています。

*写真は最後の1枚を除き、すべて8月の大災害以前のものです。

筆者プロフィール

近藤純夫
カワラ版のネイチャー・ガイド。本業はエッセイスト兼翻訳家だが、いまはハワイの魅力を支えている自然をもっと知ってもらうことに力を注ぐ。趣味は穴潜りと読書。ハワイ滞在中も時間をやりくりして書店通いをしている。

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